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コラム
 <2004年48号(春号)>
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生家の記憶(気密・断熱)
前会長 多田 紘司
[徒然草抜粋]
「家の造りようは夏を旨とすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑き頃わろき住居は堪え難き事なり。」

生家の母屋も、今から約35年前に今のものに建て替えられた。瓦葺き平家建てで、広さは80坪強ほどであろうか。亡父が自らの持山から伐り出した木を製材所へ持ち込み、棟梁と相談ずくで木取りをしたかいあって、当時としてはなかなかの出来映えであった。
柱や梁に美観上の欠点が少々混じっているくらいは止むを得ない。開口部は全てガラス障子に変わり、軒の出も小さくなった。自家水道が巡らされて、浴室もあたり前のように一つ屋根の下に納まった。

そのかわり、毎年来ていた燕が来なくなった。子燕が翌年同じ家に戻って来るというのは本当だったのだろうか。懐しいあの火鉢はリストラされて今は庭の片隅で植木鉢をつとめている。あの頃よりもずい分小さく感じてしまうが、それでも私一人の力ではビクともしない。

しかし、新しくはなったものの、屋根こそ違え他は昔と同様の構・工法だから、気密や断熱の点から観たとき、それは「わら葺屋根」時代と少しも変わらない「ノー気密ノー断熱」の家である。それでも、ガラス障子とカーテンが醸し出す陽当りと各種の家電製品の目覚しい進出とが相まって、夏冬の過し易さには隔世の感があった。もし兼好法師が現代に生きて住宅を語れば、「家の造りようは夏冬もいかようにも住まる」とでも言うのだろうか。

高気密・高断熱を謳う今日の住宅は、その性能に何の疑いを持つものではないし、日進月歩の改善に大いに期待を抱くものである。

ただし私が抱く期待とは、快適性と言いながら人に安易に快楽を与え過ぎないことであり、建材や設備がどんどん重装備化して、エネルギーコストが悪循環に陥らないことである。食材から季節感が失せ、行事や祭事さえもが簡略化される風潮の中で、住宅の「高気密高断熱」という言葉があたかも住居を自然界から隔離するかの如き誤解を与えてしまって、結果として人が健康を損ったり、果ては火や熱の扱いさえ知らなくなるような愚を犯してはならないと思う。“夏暑くて冬寒い”このあたり前の自然と共生しその営みに親しむ心身を養うことこそが高気密高断熱住宅の目指すものである。

生家の暑い記憶も寒い記憶も、ただ単に不快・不便の一言で片付けるものではなくて、自然との折り合った営みがあったればこその懐かしい記憶なのである。


 
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